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★★正室光と櫛橋一族★★馬鹿兄姉含む

1 :日曜8時の名無しさん:2014/02/02(日) 15:52:39.50 ID:zdvvqe5K
★★正室光と櫛橋一族★★馬鹿兄姉含む


櫛橋 光(くしはし てる(みつ))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。
播磨国印南郡(現在の兵庫県加古川市志方町)の志方城主・櫛橋伊定の娘。
小寺政職の従姪であり養女。黒田孝高の正室。
院号は照福院(しょうふくいん)。雅号に幸圓(こうえん)がある。
1553年(天文22年)、播磨国志方城主・櫛橋伊定の娘として誕生。
兄に櫛橋伊則・櫛橋則政、姉に上月景貞室(妙寿尼)、妹に井上之房室がいる。

1567年(永禄10年)、小寺氏の家臣・黒田孝高に正妻として嫁いだ。
孝高は側室を持つことはなく、
1568年(永禄11年)に黒田長政、
1582年(天正10年)に黒田熊之助を産んだ。

2 :日曜8時の名無しさん:2014/02/02(日) 15:57:13.31 ID:zdvvqe5K
妙寿尼 (大河では馬鹿姉の設定)
史実では
天文14年(1545年)2月5日、播磨国印南郡(兵庫県加古川市)志方城主・櫛橋伊定の長女として出生。兄に櫛橋伊則、妹に黒田孝高室(光・照福院)がいる。 
永禄3年(1560年)、16歳で播磨国守護職・赤松氏の一族である上月十郎景貞に嫁ぎ、
その後2人の子を産む。

天正5年(1577年)11月末から約7ヶ月間にわたり、上月城では織田軍と毛利軍との間で数度の攻防戦が繰り返され、
翌年の2月には毛利方に属した夫の景貞が宇喜多直家の命により城主となるが、
3月下旬に織田方の羽柴(後の豊臣)秀吉らの軍勢による猛攻と、配下の江原兵庫助の謀反により落城する。
景貞は負傷しながらも城外へ脱出し、わずかな手勢を率いて高倉山の秀吉の本陣を目指し奮戦するが叶わず、
千種川沿いの櫛田(兵庫県佐用町櫛田)の山中にて自刃または討死したとされる[3]。

この時、夫人は2人の子と共に義弟である秀吉軍の黒田孝高(官兵衛)の陣中を頼る。
孝高はその悲境を憐み、秀吉の許しを得て3人を黒田家で引き取ることになった。
後に夫人は出家して妙寿尼と称し、また2人の子のうち、姉は小早川秀秋の家老・平岡石見守に嫁ぎ[4]、
弟は元服して名を上月次郎兵衛正好と改めた。

天正18年(1590年)3月、豊前国下毛郡中津(大分県中津市)の中津城にいた如水(孝高)の招きで播磨国を離れ、
同地へ移り住む。嫡男の正好は黒田姓を称し、中津で黒田家の旗本となるが、
文禄元年(1592年)の文禄の役に参陣し朝鮮へ渡り、同年6月15日の大同江の戦いで平壌にて戦死している(享年25)。
慶長5年(1600年)12月、甥の黒田長政が筑前国(福岡県)へ国替になったことに伴い、
中津城から糟屋郡の名島城(福岡市東区名島)へ移る。
その後、那珂郡警固村福崎(福岡市中央区城内)の地に福岡城が築かれると、
同城内の本丸西の屋敷で妹の照福院(光)と同居し、余生を送った。
慶長18年(1613年)11月19日、筑前国福岡にて没した。享年69。
戒名は遍照院殿量誉妙寿尼公大姉。
墓所は福岡県宮若市龍徳の光明寺。

3 :日曜8時の名無しさん:2014/02/06(木) 20:01:21.58 ID:n3qhVmf+
     ____
   /__.))ノヽ
   .|ミ.l _ ._ _ _i.)
  (^'ミ/.´・ .〈・ リ
  .しi   r、_) |  光はわしが育てた
    |  `ニニ' /
   ノ `ー―i´

4 :日曜8時の名無しさん:2014/02/10(月) 02:06:02.53 ID:4RQXndNk
馬鹿姉が嫁いで、子供をもうけたとまで紹介されたんだから
今後、姉妹の共演場面が多くなるんだろうな

5 :日曜8時の名無しさん:2014/02/11(火) 19:20:29.46 ID:UIOMVmaj
そもそも、櫛橋は小寺の家臣ではないのだが...

小和田先生は、知っていて訂正させようとしたが、スタッフが聞かないので
泣く泣くスルーさせたのだろうか、それとも単に知らなかったのだろうか...

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